掲示板で頂いたTAKIさん、砂漠のたぬきさんの質問
Q1.四式中戦車はの試作型は鋳造か溶接か?<TAKIさん
A 「よく覚えていないが鋳造式だった」 原田氏 談
注:当時の三菱の技術者 大高繁雄氏の回想によると
砲塔は 一体鋳造には自信が無かったので、大事を取り分割方式を採用し、形の複雑な左、右と後部を鋳物とし、
後部は単体ボルト締め、左右の二つは前面および上面に平板を配して溶接一体化を図った。
結果は予想に反し鋳造時の歪みが甚だしい上に、硬いため修正が効かず、加工は困難を極めた。
出来上がりは図面寸法よりも数十mmも外れた部位さえあった
戦車マガジン79/4号より
Q2.三式中戦車は動力旋回か?<砂漠のたぬきさん
A 「モーター旋回(バッテリー式)、バックアップ用に手動のハンドルがあったが小さいので回すのが大変だった。」 辻本氏談
Q3.三式&四式の通信設備について?<レツゴー三万匹
さん
A 「チハやチハ改、それ以降の戦車にはすべて無線機は配備されていた。」
「通常は極超短波無線機(500m範囲くらい)だが、中隊長車には短波無線機がついていた」
原田氏、辻本氏談
注:九四式四号丙無線機 行動間・電話 通達距離 1km 全備重量 90kg 戦車用として終戦まで使用された主用機種
日本の機甲60年より
Q4.三式、四式の砲塔内の座席はどうなっていたか?出来れば九七式も<TAKIさん
A 「操縦手、通信手以外は座席は無かったように記憶している」
「戦車に乗っている時は座ったことはなく、後ろによっかかっていた」
原田氏、辻本氏談
注1:旧軍の戦車乗員は車長を除いては座席がなく、立姿の状態で直接床上に位置して
砲塔の旋回に応じて忙しくその姿勢を変換せねばならなかった
日本の機甲60年より
注2:九七式中戦車の乗員は4名で、車長、砲手、操縦手、前方銃手から成る。
このうち座席があるのは操縦手、前方銃手だけで、それもごく簡単な構造のものである
戦車マガジン1981増刊 特集97式中戦車より
メールで頂いたきーくんさんの質問
Q5.それまで搭乗されていたと思う九七式中戦車に比べ、操縦性はどうであったのか?
Q6.九七式中戦車に比べ、変速は難しかったのか?
A 「九五式の操縦が1番楽だった」
「九七式の変速は難しく、ギアが1発で入ることなどほとんどなく、すんなり入った時にはうれしかった」
「士官学校での将校より、少年戦車兵上がりの下士官の方が操縦は優れていた」
辻本氏、原田氏 談
注:当時、九五式軽戦車から三式中戦車の操縦士をつとめられた方によれば
運転しやすい九五式から、三式は長砲身で砲を前に向けたまま走ると砲がおどりやすく気を使ったそうだが、
とりたてて(機械的な問題で)運転しにくい印象派はない」
ファインモールド社 三式中戦車実車解説より
Q7.エンジンの信頼性、整備性はどうであったのか?
A 「セルモーターが致命傷だな(笑)、1発でかかることはほとんどない」
「自動貨車や始動した戦車での引き掛けはもちろん、人力で坂まで押してエンジンを始動していた」
「満州などの寒冷地では車体後部にシートをかけてエンジン部分を焚き火で暖めていた」
「教育時ヂーゼルエンジンがいかに引火しづらいか確かめる為、火のついた布をエンジン部分で燃やしたが引火しなかった(笑)」
原田氏、辻本氏談
Q8.エンジン、足回り等で、どこが一番壊れやすかったのか?
A 「変速機関係、足回り(走行中転輪が外れたことがあった)」 原田氏、辻本氏談
Q9.消耗パーツの補給状態、ストック状態はどうであったのか?
A 「本土は物資が不足していたが満州から移駐したときに物資を山ほど持ってきたので困らなかった」 原田氏 談
「パーツにはそれほど困らなかったが食料には困った」 辻本氏 談
Q10.九七式中戦車に比べ、居住性は良かったのか?
A 「確かに砲塔は大きくなっていたな」 原田氏、辻本氏談
Q11.九七式中戦車に比べ、車外の視察能力は向上していたのか?
A 「変わらなかった」 辻本氏 談
Q12.三式戦車の砲塔は、動力旋回であったのかそれとも手動旋回か?
A 「モーター旋回(バッテリー式)、バックアップ用に手動のハンドルがあったが小さいので回すのが大変だった。」 辻本氏談
Q13.砲塔の旋回スピードはどのくらいか?
A 「そんなに遅くなかった」 辻本氏 談
Q14.装填手は、装填動作はやり易かったのか、また、砲手は座席に座ったまま照準を行うのか、立ったまま行うのか?
A 「装填動作は今から思えばやりにくかっただろうが、当時はそのようなことなど思わなかった」
「座席は無かったので立ったまま行った」
原田氏、辻本氏談
Q15.照準器は、どのような物を装備(倍率等)していたのか?<きーくんさん
A 「3倍の照準鏡を使用していた」 原田氏、辻本氏 談
Q16.射撃訓練は射距離何メートルで行っていたのか?
<きーくんさん
A 「戦車学校時、訓練用のチハ改では800mで行っていたが47mm砲はよく当った」 原田氏、辻本氏談
「三式では照準機調節の為各車3発づつ撃っただけだった」 辻本氏談
Q17.使用する砲弾は何種類あったのか?<きーくんさん
A 「徹甲弾と榴弾があったが、部隊ではほとんどが榴弾しか支給されなかったと思う」 辻本氏談
Q18.M4戦車を、どのくらいの距離で撃破可能とされていたのか?<きーくんさん
A 「よく覚えていない」 原田氏、辻本氏談
注:三式75mm戦車砲II型をもってするM4戦車への攻撃について
M4に対しては600mにおいて(直角に当れば1500m)正面を貫通しうるが、命中角の関係上成功する確率は低い。
ファインモールド社 三式中戦車実車解説より
Q19.M4戦車等の敵戦車に関する情報はどの程度把握していたのか?
<きーくんさん
A 「士官学校では驚くほど正確な各地での戦況や戦訓についての教育があった。」
「M4戦車についての情報では九七式改ではM4は銃眼を狙うか車体下部を狙う」
「バズーカ砲の情報もあった」
辻本氏、原田氏 談
注:昭和20年に対戦車戦闘の参考/陸軍機甲本部刊が出され戦車学校の教官が
内地の第一線部隊に出向いて普及教育が行われた。
内容は戦車を掩体の中に入れておき相手戦車をやり過ごしてから
後面または側面から射撃するといった戦法。
M4に対しては47mm砲は通常の射距離で対応できないので、近距離からの砲口、
眼鏡、潜望鏡、履帯などの弱い部分を攻撃するように示された。
日本の機甲60年より
Q20.敵歩兵が装備するバズーカ砲等の、タ弾に対する対策は考えていたのか?<きーくんさん
A 「覚えていない」 原田氏、辻本氏談
Q21.車載無線機の装備状況はどうなのか、また、性能はどうだったのか?
<きーくんさん
A 「チハやチハ改、それ以降の戦車にはすべて無線機は配備されていた。」
「通常は極超短波無線機(500m範囲くらい)だが、中隊長車には短波無線機がついていた」
原田氏、辻本氏 談
NIFTYから頂いた新日本機甲さんからの質問
Q 戦車隊には航空隊の様に燃料輸送車が配備されるのですか?
A タンクローリーのような物ではなく、普通のトラックが配備されていた。
Q ドラム缶の規格は現在のものと同じですか?色彩は国防色ですか?マーキングはありましたか?
A 「180L入りで色は鉄かぶとと同じ色(カーキ)」辻本氏談
「満州で72L入りのドラム缶を見た記憶あり。」原田氏談
Q 燃料弾薬供給は安定していましたか?
A 教育配備された満州や蒙古では燃料、弾薬も豊富にあったが昭和20年に部隊に配属されると物資は不足していた。
Q チヌ車やチト車は車長の命令を無線手と操縦手にまともに伝達できるのですか?
A 「車内通信装置(ドイツ軍が使用していたものと同様のもの)はちゃんとあったが、いちいち切り替えをするのが面倒なので足で蹴飛ばす方が早かった(笑)」 辻本氏談
Q 諸元表ではチハ車改4人乗り、チヘ車5人乗りになっていますがチヘ車の5人目の戦
車兵の搭乗空間も仕事もない様に思われます。そもそもチハ改の砲塔は3人乗り砲塔
だったんでしょうか?
A 「チヘは確かに5人乗りだった。」「確かに狭かったが不便はなかった。」原田氏談
Q 私的制裁には戦争遂行上、合理的な必要性があるのですか、ないのですか?
A 「機甲科は技術者の集団(戦車の乗員はほとんどが下士官以上で、兵は段列の使役員ぐらい)だったので普通の歩兵に比べると私的制裁は少なかったようである。
個人的な見解では上に報告しなければならないようなことでも、殴ることでその場で納めてしまえたので一概に悪いとは言えない。自分が殴りたかったときもあったが(笑)」 辻本氏談
Q ドラム缶よりも小さい規格として一斗缶が使われていましたか?
A 「オイルなどは一斗缶が使われていた。」
「満州や蒙古のような寒冷地では一斗缶を利用して焚き火をしエンジンを温めていた」 原田氏、辻本氏談
Q 車両無線機の配備率はどの程度ですか?またその無線機は実用に耐えうる性能を持っ
ていましたか?
A 「チハやチハ改、それ以降の戦車にはすべて無線機は配備されていた。」
「通常は極超短波無線機(500m範囲くらい)だが、中隊長車には短波無線機がついていた」
原田氏、辻本氏談
Q チヌ車後部の無線アンテナ架台は使用しましたか?また使用方法の教育を受けましたか?
A 「無線等の本格的教育は陸士58期がはじめてだった」 原田氏、辻本氏談
「チヌの無線アンテナ架台については記憶がない」 辻本氏談
Q チヌ車、チト車の明らかに用途、形態の異なる派生型を見聞きしたことはありますか?
A 「記憶がない」 原田氏、辻本氏談
Q 貴隊に配備された自動貨車、軽車両の形式をご存知ですか?又何両ですか?
A 「いろいろな車輛があったが数までは記憶にない」 原田氏談
「池貝の自動貨車があった」 辻本氏談
Q 後期の戦車迷彩は緑、国防色、そして濃い灰色の3色でしたか?
A 「四式中戦車は1色で国防色のように緑が強くなく、鉄かぶとのように赤みが強くなかった」
原田氏談
「18連隊で乗車した三式中戦車は草色1色だった」 辻本氏談
注:σ(^^)の持参した模型を見ながら草色はグンゼの濃緑色のように濃い緑ではなかった。
Q 貴隊にタ弾は供給されていましたか?
A 「タ弾については昭和20年の初め頃聞いたが、部隊に供給されていたかはわからない」 原田氏、辻本氏談
Q 本土決戦の部隊表によるとチハ車の砲塔を転用したと思われる特火点の存在が示唆されていますが。ご存知ですか?
A 「記憶にない」 原田氏、辻本氏談
Q 戦車の整備の必要上、部品を廃棄したり削ったりすると思いますが、本件と「大元帥からお預かりした」と言う前提の間でどのような整合性を取っていたのですか?
A 「機甲兵は基本的に技術者の集まりで合理的思考の指向の高い兵科だったので歩兵と違い精神主義的思考が薄かった」 原田氏、辻本氏談
Q 貴隊に装甲兵車は配備されていましたか?
A 「28連隊は戦車学校を母体にした教導隊の意味合いもあり少数ではあったが配備されていた」
原田氏談
「18連隊にはなかった」 辻本氏談
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